こんにちは、イングリッシュ・ドクターの西澤 ロイです。
昨日、こちらの書店トークイベントに参加
したわけですが、たまたま紀伊國屋さんで
見つけて気になった書籍がこちらです。
『目の見えない人は世界をどう見ているのか』
き、気になりませんか?(笑)
実は以前、この本を読みました。
『まっくらな中での対話』
DID(Dialogue In the Dark)の
アテンドをやっている目の見えない人達の
生態(?)について書かれていて、
非常におもしろかったのを覚えています。
例えば、
・音の反響から壁の素材が分かる(人がいる)
とか、
・目が見えなくても写真は結構撮る
とか。
目が見えるのが良い、見えないのは不便・・・
というのが従来の考え方かもしれませんが
そのようにしてしまっているのは
「社会」なんですよね。
それを逆転した世界がDIDだったわけです。
・・・ということで、非常に期待しつつ
『目の見えない人は世界をどう見ているのか』
を読みましたが、期待を全く裏切らない本でした。
目が見える/見えない、という表面的な
違いではなく、もっと奥から、
何が違うのかをあぶり出してくれています。
例えば・・・富士山。
富士山を絵に描いて、と言われたら、
目が見える人はたいてい、
「2次元」
で書きます。
でも、ちょっと考えてみて欲しいんです。
この世界って2次元でしたっけ?
いや、空間でいえば3次元です。
しかし、本来3次元である富士山を
目が見える人たちは2次元でしか
認識できていないかもしれないのです。
それに対して、以下(↓)が、
目が見えない人の富士山です。
目が見える人たちは、
視覚を持っていることにより、
「視点」を持つことになります。
それはつまり、正面とか裏面といった
順位付けをすることにつながり、
ひいては「死角」を生むことになるのです。
そのような指摘を読んで、私はこんな風に
思いました。
視 = 死
なのかもしれないと。
音が同じ「し」なのは、決して偶然では
ないような気もします。
目が見える人の脳は、その大部分が
視覚情報を処理するために使われます。
そのおかげでもちろん脳が発達も
していますが、逆にそこに依存も
しているわけです。
街なかを歩いていると、余計な情報が
たくさん入って来すぎて、逆に困った
ことになっているかもしれないのです。
目が見えることによって
視えなくなっているものもある。
そのことに改めて気づかせていただき
ましたし、本はまだまだ続いて、
「運動」「言葉」「ユーモア」
などについても語られます。
これは知的好奇心がある全ての方に
読んでいただきたい本ですね。
『目の見えない人は世界をどう見ているのか』